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おとふけ町の農畜産物

◇音更野菜の歴史

明治13年に大川宇八郎翁が、音更町下士幌の十勝川の川岸に堀立小屋を作ってそこに住むようになり、わずかな野菜畑を耕したときから音更の文献に残る野菜の歴史が始まります。

以降、少しずつ本州などから開拓の人が入ってきましたが、本格的な開拓が始まったのは、明治29年頃からでした。移住してきた人達は、大豆やとうもろこし・ソバ・大麦・あわ・バレイショ・菜豆などを栽培し、大豆は商人に売り、それ以外の作物を食べていきました。きっと故郷を出発するときには野菜の種も一緒に持ってきて育てていたと思われますが記録には残っていません。
その後、どの様な作物がどれくらいの面積で栽培され、どれくらい収穫されたかが記録され始めますが、明治42年に「蔬菜25町」と記録されています。しかし、どんな野菜を栽培していたかはわかりません。

明治・大正・昭和と音更の人口も増えていきましたが、初めのうちは農家の人ばかりなので、野菜が売られることはありませんでした。街の人が増えると雑貨屋さんのようなお店の中で野菜も売られるようになっていきましたが、街の近くの農家の人が届けていたようです。昭和の30年代までは「引き売り」と呼ばれるリアカーを引いた女性が、家々をまわって野菜を売っていましたが、街の近くの農家の人にとっては貴重な収入源だったことでしょう。

そうやって野菜作りを増やしていったのが、木野の宝来地区です。音更川が運んできた栄養豊富な土と、たくさんの人が住んでいた帯広にも近いことで、「野菜の宝来」と呼ばれるようになりました。
宝来地区では、第2次世界大戦が終わると、積極的に野菜を作り始めました。トマトやキュウリ、タマネギやハクサイなどがたくさん作られ、当時の国鉄木野駅から毎日のように釧路方面や炭鉱の町になどに送られていたほどです。
宝来地区ではその後も、トマトなどに加え、ナス・ナンバン・ニンジン・ゴボウ・ナガネギ・スイカなどが作られ、十勝の野菜の中心産地でした。

昭和50年代からは、音更町全体で野菜の生産が広がり、昭和60年代にはナガイモやカボチャ・ブロッコリー・ホウレンソウ・アスパラガスなどがたくさん作られるようになりました。最近ではニンジンが、日本でも3本の指に入る大産地となっています。
参考文献:音更町史、協同の道永遠に(木野農業協同組合)
50年のあゆみ(木野蔬菜振興会)
音更町農協50年史

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